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ソムリエに合格しました

 投稿者:忍び駒  投稿日:2016年 3月25日(金)16時28分36秒
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  かるほ様
ご指導有難うございました。お陰さまでソムリエの合格通知を頂きました。
最高点は89点だそうですが、私は84点でしたので、地理感のない東京の受験者としては、
まずまずの成績だったのかも知れません。
相変わらずテキストはまだ一度も通読したことはありませんが、
「奈良検定お勉強日記」だけは、丁寧に何回も読ませて頂きました。
奈良検定でもソムリエの認定を頂いたので、これで検定のトップランクの認定は、
私にとって7つ目となりました。
 
 

ありがとうございます

 投稿者:かるほ  投稿日:2016年 1月18日(月)22時07分17秒
返信・引用
  忍び駒さん
情報ありがとうございます。

「まだ」覚えないほうがいいってことですかね>構成資産★
定まっていないようですし。

ということで、これはまだ奈良検定では出ないのではないかと…。
 

世界遺産の暫定リスト

 投稿者:忍び駒  投稿日:2016年 1月16日(土)17時31分51秒
返信・引用
  かるほ様
新年あけましておめでとうございます。
ご教示頂きましたように、「飛鳥・藤原」の暫定リストについて、ソムリエの試験を
視野に入れて照会しておりましたのに、試験が終わって、今頃になってから回答がありました。
「遅かりし由良之助」とはこのことでしょう。
一応、ご参考までに貼付しておきます。
===================

世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会事務局
奈良県地域振興部文化資源活用課の小池と申します。

協議会ホームページへのお問い合わせ、誠にありがとうございました。
返信が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。

ご質問の、構成資産候補の数についてでございますが、
暫定資産リストに記載した当初(登録推進の活動を始めたころ)は、
28の資産を候補としておりましたが、
推薦の準備として「飛鳥・藤原」が主張していくべき価値を検討していく中で、
現在は20の資産を候補として考えております。
この後も、「飛鳥・藤原」の価値と、それを証明する資産を十分に検討するなかで
構成資産候補の数や内容が変更していく可能性がございます。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

今後とも、「飛鳥・藤原」に関心をお寄せいただきますよう、
どうぞよろしくお願いいたします。

==============================

小池 香津江 KOIKE Katsue

奈良県地域振興部 文化資源活用課
文化資源活用係
〒630-8502 奈良市登大路町30
TEL 0742-22-1101(内線2553・2552)
0742-27-2054(係直通)
FAX 0742-27-0213
E-mail aoki-katsue@office.pref.nara.lg.jp

==============================
?
 

わかりかねます

 投稿者:かるほ  投稿日:2015年12月25日(金)00時01分29秒
返信・引用
  忍び駒さん
ごめんなさい、精査している時間がありませんので一言だけ。
wikiは公式サイトではありませんので、そちらの方が精度が低いのではないでしょうか?

もしよろしければ、ご自分で、wikiと公式の「差」をはっきりさせて、
「公式」の方に質問なさってみてはいかがでしょうか?
 

世界遺産の暫定リスト

 投稿者:忍び駒  投稿日:2015年12月22日(火)11時41分41秒
返信・引用
  世界遺産の暫定リストの構成資産についてご指導をお願いします。
「飛鳥・藤原の旧都とその関連資産群」の構成資産候補は幾つあるのでしょうか。
公式ホームページには20この候補が載っていますが、wikipediaには28この候補が挙がっていて
8こもの差があるのはどうしてでしょうか。


 

妄想歓迎

 投稿者:かるほ  投稿日:2015年 7月27日(月)21時38分43秒
返信・引用
  忍び駒さん
妄想は絶賛推奨中(?)ですが、
ワタクシには高唱過ぎてついていけない話題です>「弄斎節」「投節」
どうぞ、存分に妄想の限りを尽くしてくださいませ。
(でも、私に答えを求めないで下さいね(汗))
 

辰巳 高取

 投稿者:忍び駒  投稿日:2015年 7月24日(金)07時34分4秒
返信・引用
  かるほ様
根拠のない妄想ばかりで申しわけありません。
「辰巳高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」
この歌詞は大変に馴染み易いリズムを持っていますよね。
お気付きのように、その理由は文字数の並びにあります。
「七・七・七・五」という文字数になっていて、
江戸時代に京都の遊郭から起こった「弄斎節」(ろうさいぶし)や、「投節」(なげぶし)などといった
歌謡が持っていたリズムです。
幕末に名古屋で始まった都々逸(どどいつ)や、相撲甚句などの甚句物もこのリズムを引き継いでいます。
しかも、更によく見ると、「七・七・七」の中味は規則正しく、「(三 四)(四 三)(三 四)」と
なっていいて、歌詞のリズムは更に高い完成度を持っています。
江戸時代に奈良や郡山には立派な遊里があったようですが、高取城を望む方向がピッタリ来ません。
もっと南の八木や橿原から眺めると辰巳の方向になりませんか。
その辺りの遊里を想像して見ました。
橿原市の小綱町(しょうこちょう)と云う町は、この歌には馴染みませんでしょうか。
 

暑い暑い中

 投稿者:かるほ  投稿日:2015年 7月22日(水)21時52分1秒
返信・引用
  忍び駒さん
奈良歩きお疲れ様でした。
奈良大学の学生さんたちも歩きで神宮まで行くという旅を体験されているようですが、
現代は「近鉄」があってよかったなあ~と思うばかりです。

高取城の歴史好きおじさん達は天誅組ラバーズでしたかね。
幕末好きといっても、好きなもの(ひいき筋)によっては敵対しちゃいますから。


で。
高取のご質問ですが。
3.のみ答えられます。

”土佐町由来
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、古里土佐の国を離れこの地に召し出されたものの、
任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから
土佐と名づけられたと思われる。”
(→http://www.geocities.jp/mimi159630moko/40-1-1-machiya-hinameguri.html

ということで、「6世紀の始め頃」「都作りの労役のため」土佐から来た人によって、
その地がそう呼ばれるようになったってことですね。

1と2に関しては存じません。
あしからず。
 

高取城

 投稿者:忍び駒  投稿日:2015年 7月22日(水)10時04分0秒
返信・引用
  かるほ様
「辰巳 高取 雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城」という俗謡があるとだけ、あちこちに紹介されていますが、
わからないことがあるので教えて下さい。

① 「俗謡」とだけ書かれていますが、なんと云う題名の俗謡集に収められたものなのでしょうか。
  俗謡の名前も、歌われた時代も、どんな時にだれによって歌われていたものかも分かりません。
  お座敷歌のようですが、それとも民謡や労働歌の類でしょうか、或いは流しや門付けの歌でしょうか。

② 「辰巳 高取」とありますが、高取城は奈良や郡山から眺めたのでは、辰巳(南東)の方向には見えないように思います。
  どっちかというと真南に近い方向になると思いますが、一体どこからの眺めを歌にしたものなのでしょうか。

③ 高取城の山麓に佇む「土佐」という地域を通りました。土佐国から徴用され、帰国を諦めた人々の住んだ地域だそうです.
     何時の時代に、何の目的で 連れて来られた人たちなのでしょうか。

理屈っぽくなって申し訳ありません。私は邦楽に関心があり、特に小唄では名取を頂いております.。
この歌をぜひ聴いてみたいと思っておりますので、CDなどがありましたらご紹介頂きたいと思います。
 

高坊一族 

 投稿者:忍び駒  投稿日:2015年 7月22日(水)09時18分8秒
返信・引用
  かるほ様のご説明のそのまんまですが、昨年の5月、上ツ道を歩いた時に書いたものを以下に
転載しておきます。「百街道一歩」さんのブログにも同様の文章が記載されています。
・・・・・・・・・・
先日、百街道一歩さんのお供をして、奈良の旧街道(上ツ道)を歩いた際に、
中将姫伝説にゆかりのある誕生寺、徳融寺、高林寺などにも立ち寄りました。

特に、高林寺に立ち寄ったのは、茶人サロン「高坊一族」のことを少しでも知りたいと
思っていたからです。寺は非公開の日であったにも拘らず、我々は境内に入り込んで、
中将姫伝説の父・藤原豊成の廟塔などを見せてもらいながら、
高齢のご住職から「高坊一族」についてのお話を伺いました。
高林寺は尼寺ですが、現在では融通念仏宗の寺となっていて、
「高坊一族」に所縁の茶室も再興されていました。

高林寺は、かつて元興寺にあった多くの塔頭(坊)の一つで、
高地にあったことから、「高坊」と呼ばれたのだそうです。
この高坊高林寺に出入りする数寄者たちの作り上げた一大サロンが
「高坊一族」と呼ばれ、室町時代から、多くの茶人、連歌師などが集まり、
住み込んで、奈良町の文化の中心地となっていたようです。

豊臣秀吉が織田信長の追善のために建てた、京都大徳寺の塔頭・総見院の開山となり、
千利休の禅の師であった「古渓宗陳」、
明智光秀の謀反を事前に知っていた唯一の人物といわれる連歌師の「里村紹巴」、
僧で連歌師の「心前」などの有名人がサロンの中核を形成していたようです。

秀吉の北野大茶会に茶席を設けたり、堺の豪商・津田宗久に招かれたとなどいう
記録類が数多く残っていると伺いました。以上
 

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