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前文の続き

 投稿者:福澤  投稿日:2018年11月20日(火)12時06分2秒
   先般、OB会のバスハイクで福井県敦賀市を訪れた。ここに武田耕雲斎の墓跡がある。水戸では尊王攘夷の徳川斉昭の死後、混乱を極め、藤田東湖の四男、小四郎が天狗党を率いて挙兵、小四郎の熱意にやむなく耕雲斎は首領となった。京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主にすえることを目的として、800名の将兵を率いて中仙道を進軍、福井の敦賀で幕府軍の追討を受け降伏した。当初は加賀藩の預かりで取扱いは丁重、幕府役人に引き渡されると鰊蔵に押し込められ劣悪な環境の中で病死者が続出した。処刑(首切り)の役目は、結局は桜田門外の変の因縁から彦根藩が引き受けた。耕雲斎は小四郎とともに斬首された。<353名>耕雲斎の水戸にいた妻、2人の子、3人の孫も斬首された。この件について西郷隆盛は、「降伏したものを罪人扱いして誅殺するとは尋常の振る舞いでなく、道理に合わない」とし、大久保利通は「是をもって幕府滅亡のしるし」と日記に記している。なお、耕雲斎の娘は、前述の紀尾井坂事件の島田一郎の妻となっている。

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西郷どんと金沢

 投稿者:福澤  投稿日:2018年11月19日(月)15時04分28秒
  1、「西郷の首」【伊東潤作」~昨年秋に角川書店から刊行
明治維新の西郷隆盛と大久保利通の友情と同様、金沢においても、明治維新前後を生き抜いた竹馬の友、千田登文と島田一郎の2人にスポットをあてた小説である。
2、明治維新前後、加賀藩は中立的立場だったため明治新政府において優遇されなかった。
(1)このような中で、竹馬の友であった千田登文と島田一郎は、それぞれの生き方を波乱万丈の人生を送っている。
(2)2人は、戊辰戦争では、新政府軍の一員として、北越戦争で越後を中心に戦ったが、その後、廃藩置県、版籍奉還等の中で、士族が没落。千田登文は軍人に、島田一郎は三光寺派という尊王攘夷の政治結社をつくり、千田登文は軍人として戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争を生き抜いた。西南戦争では城山の西郷隆盛の自刃後、行方不明となった西郷の首を発見し、金沢の当時の新聞等で話題となった。
(3)島田一郎は反政府運動に転じ、明治11年5月6人<1人は島根藩士>で紀尾井坂で大久保利通を暗殺した。その後、7月処刑されている。~維新とは、武士とはといったテーマに焦点をあてた傑作である。
(4)紀尾井坂事件の島田一郎らの墓は谷中霊園に葬られている。また、三光寺派の拠点の三光寺は寺町のいわゆる忍者寺の並びに現存している。金沢では50回忌に明治烈士として6人の墓碑が野田山墓地から山側環状を隔てた所に祀られている。
(5)千田登文は4男6女をもうけ、昭和4年に死去。墓は野田山の大乗寺境内に葬られている。また、千田家は観光名所の武家屋敷の一角に残されており、今も子孫が後を継ぎ、金沢の用水から引いた池泉回遊式の庭園が金沢指定文化財に指定されている。<参考>大野敏明:「西郷隆盛の首を発見した男」文春新書:

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望年会のお知らせ

 投稿者:中村由博  投稿日:2018年11月15日(木)17時11分50秒
  会員各位
2017・11・15(木)
香日向山の会
中村由博
香日向山の会「望」年会のお知らせ
                 記

日時  2018年12月1日(土)5:00pm~
会場   コミセン和室
参加費   1500円
(大人1名分です。)
お子様は無料です。
※ 参加希望者は各丁目の責任者へ
11/25(日)までにご連絡ください。
1丁目 中村 43-9314    2丁目 小林さん44-2692
3・4丁目 吉井さん43-8283

尚、本年度の総会も兼ねていますので、ご多忙中と思いますが何卒ご出席を宜しくお願いいたします。また、香日向山の会」の年会費2400円(1世帯200円/月×12)を徴収致します。


 今後の日程

  11月会山行
   11/17(土) 矢倉岳

  12月会山行
   12/15(土) 奥多摩御前山



 

近況報告

 投稿者:福澤  投稿日:2018年11月 9日(金)14時24分42秒
    平成30年度第54回京都非公開文化財特別公開(11月1~11日)
今回は17ヵ所のうち既に拝観したところを除く8ヵ所+番外として1ヵ所を訪れた。
1、阿弥陀寺ー地下鉄烏丸線今出川下車、タクシーで5分ー今年の夏に安部龍太郎の<信長はなぜ葬られたのか>が刊行され、がぜん注目された。本能寺の変で自刃した信長の遺体は発見されなかったが定説、本書では<信長の墓は京都阿弥陀寺にある>という文献をフォロー
したもの。寺町通今出川上ルに阿弥陀寺があった。門前に「織田信長公本廟」の碑があり、立て札に由来が記してある。本堂内には信長とその子信忠の木像と位牌、家臣112名の位牌が安置<この日は未公開>。開山、清玉上人(加藤廣作:信長の棺:によれば信長の義兄弟と言われている。)が、遺体を荼毘に付していたのを供養するとして遺骨を引き取って当寺に埋葬。信長と信忠の墓は本堂裏に並んでいて、その横には森蘭丸ら近習たちの墓がある。その後、秀吉の葬儀をめぐる意向を無視して弾圧を受けたが、大正6年に信長に正一
位が追贈され、それを伝える使者がこの寺の墓に参拝している。
2、今回公開の文化財
(1)白沙村荘橋本関雪記念館(銀閣寺道)ー日本画家橋本関雪造営の邸宅<1914>
 全体で3400坪うち2800坪が池泉回遊式の庭園、庭園内には大画室<存古楼>、茶室<憩寂庵>などのほか、全国の社寺からの無数の石造美術がある。特別公開として持仏堂の地蔵尊立像など。  その後哲学の道を久しぶりに歩く、外人観光客が多い。
(2)光雲寺(1280年、南禅寺の開山大明国師無関普門禅師が開創)、その後、後水尾天皇、中宮東福門院(徳川秀忠の娘)が中興
東福門院の菩提寺となった。本堂の仏殿には釈迦如来尊像、東福門院の像、念持仏などが安置、庭園は池泉回遊式林泉、滝水は琵琶湖疏水の水を引いている。瑪瑙手水鉢(加藤清正が朝鮮より招来)、東福門院の遺品、肖像画(この時代、女性の肖像画は珍しい)
(3)大寧軒ー廃仏毀釈後、所有者が変遷したが最近南禅寺の所有に戻った。庭園~1904年の茶人透月斎竹窓の作ー個性的な池泉回遊式庭園、池の水は琵琶湖疏水の取水口から導かれている。三角鳥居ー昭和初期に置かれた京都三鳥居の一つ。珍しい石造物~柱状列石
鞍馬石、守山石など。
(4)無鄰菴ー1894~1896に造営された第3代内閣総理大臣山県有朋の別荘で、庭園、母屋、茶室の3つにより構成。
:庭園~有朋が全体の構成を考え7代目小川治兵衛が作庭、芝生の広がる開放的な庭園、園路を歩き進むことによってこれまでみえていなかったものが次々と現れる構成になっている。:母屋~簡素な木造平屋の桟瓦葺きの建物。:洋館~日露開戦前の日本とロシアの方向性を決定付ける「無鄰菴会議」が開かれた。出席者は、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎。
(5)建仁寺~開山堂、浴室~1202年に源頼家が開祖栄西禅師に帰依して建てた寺院で臨済宗建仁寺派の大本山。開山堂は栄西禅師
の廟所、方丈には加藤文麗の竹に虎図、原在中の白梅群禽図、などが描かれている。浴室は1628年の建立、湯気で体を温める蒸し風呂、全体は板敷、風呂敷の語源と言われたいる。
(6)久昌院ー徳川家康に仕えた奥平美作守信昌が1608年創建、三江紹益和尚を開祖としている。信昌は、長篠の合戦で長篠城に籠城してよく維持した。その功により家康から娘亀姫を妻としてめとった。茶室、書院、宇喜多家7世の孫、宇喜多一蕙の長篠合戦の図。
(7)六道珍皇寺~8月7-10日までの六道参りで有名、開基は弘法大師の師にあたる慶俊僧都で平安時代延暦年間の開創

薬師如来像(平安時代作)、閻魔堂(閻魔大王坐像、小野篁立像)-伝説では篁は日が当たるときは、内裏に仕え、暮れてからは冥府の 閻魔大王に仕えていた。本堂背後の庭内には篁が冥途行きの井戸と、その帰路に使った黄泉がえりの井戸がある。
珍皇寺参拝曼荼羅図ー当時は葬送の地であった鳥辺野の入口に位置し盆行事信仰へと発展してきた。当時の模様が克明に描かれている。
(8)西福寺~嵯峨天皇(809-823)の御代、弘法大師が地蔵堂を建立し自作の土仏の地蔵尊を安置したのが始まり、鳥辺野無動所入り口は六道の辻とよばれている。嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后はしばしば参詣し弘法大師に帰依した。
:本尊阿弥陀如来坐像:洛中洛外図屏風<西福寺本>:檀林皇后九相図絵ー人が亡くなってから腐って土にかえっていく様子描いている。修行僧の煩悩を断ち切るため。皇后は自分が亡くなったあとは風葬にし、それを描くように自ら指示している。
:南せん部州万国掌菓之図(1710):海北友松筆布袋図。
                                
 

香日向トレッキング・北横岳中止のお知らせ

 投稿者:中村由博  投稿日:2018年 7月26日(木)09時08分13秒
  7月29日(日)に実施予定の香日向トレッキング・北横岳は台風12号の襲来予報のため
中止といたしました。非常に残念ですが、何卒ご了承ください。

尚、来月の1泊山行は8/25(土)~26(日)に 飯縄山(1917m)に行きます。
ミーテイングは8/5(日)19:30~ コミセンです。
宜しくお願いいたします
 

湯ノ丸山山行の中止のお知らせ

 投稿者:中村由博  投稿日:2018年 6月15日(金)08時38分39秒
  6月16日(土)に予定していました湯ノ丸山山行は降雨の確率が70%と発表されたため
中止にいたします。非常に残念ですが、ご了承ください。
尚、来月7月29日(日)の香日向トレッキングでは八ヶ岳・北横岳を計画しておりますので、
ご一緒したいと思います。


 

奥秩父主脈縦走路の端っこと尻尾(石尾根縦走路)を歩く

 投稿者:かえるのおへそ(旧ヨッシー)  投稿日:2018年 5月14日(月)23時59分33秒
編集済
  久しぶりに山中2泊の山行をしました。既に10日経ちますが、アップしたいと思います。
場所は山梨県丹波山村から三条の湯に入り1泊。そこから飛竜山に登り、奥秩父主脈縦走路、石尾根と縦走してまいりました。その2日目をアップします。ちょっと長いですが、お読みいただければ幸いです。

5月5日午前4時半を回った。日の出時刻になったとはいえ標高1103mの三条の湯は谷間にあり、まだ薄暗い。小屋の前の竃の周りに数人の人が起きてきただけで大半の泊り客はまだ夢うつつの世界にいる。独り背負う荷物を整えていると、いかにも山に浸っているような年配の方が近づいて声をかけてきた。
「早いじゃない。」
「今日は長くなるもんで」
「どこまで行くの?」
「飛龍に登って雲取を経て七ツ石まで」
「そりゃ長いな」
ボソッと言って静かに向こうへ行ってしまった。
「そりゃ長いか・・・」
独り言を言って荷を背負う。重さが肩に食い込む。これから約10時間伴をする荷重だ。
「さて行くか」
小屋の裏手の小路を登り始める。飛龍山2077mまでの1000m弱を緩やかながら一気に登る。
途中、路はあちらこちらで斜面に同化しており、足の運びも慎重を余儀なくされる。とはいえ危険個所と言うほどのこともない。
歩きはじめて2時間、路が南西から北西に方向を変えたころ、ようやく目指す稜線らしきものが見えてきた。今回の目的である飛龍登頂と、もう一つの目的、瑞牆山から雲取山へ続く奥秩父主脈縦走路の一部だ。
北天のタルには8時前に着いた。何とか3時間を切ったがコースタイムオーバー、荷物が重いのか、筋力が落ちたのか。明るいうちに七ツ石に着けるのか心配になる。
北天のタルに荷物をデポし空身で飛龍山頂に向かう。空身だから時間は稼げるだろうと思ったのが間違い。路なき崖に渡した梯子状の橋が続く。走るには危ない。また飛龍山は、最高地点と三角点の場所が異なり、事前に地図をしっかり見ておかなかったため、山頂付近で右往左往する始末。北天のタルから飛竜山頂までの往復に2時間近くかかってしまった。明るいうちに七ツ石に着けるか?
荷物を背負って憧れの奥秩父主脈縦走路に足を踏み出す。三条ダルミまでほぼ等高線通りの路をできるだけ飛ばす。気持ちだけは・・・。休憩時間も惜しんで歩く。
と突然、窪地に飛び出す。三条ダルミだった。2時間強、ちょうど12時に着いた。これで何とか明るいうちに着ける。ほっと一安心。昼食も落ち着いてゆっくりとることができた。富士山がきれいに見える。
雲取山への登りはきついが焦らずに登れた。森林を抜けると山頂直下、避難小屋の前に出た。1年もたたずにくることになるとは。暫し山頂からの景色を懐かしむ。途中で一緒になった人と話をしていると、甲武信ヶ岳から奥秩父主脈縦走路を歩いてきたことを知る。思わず憧憬の眼差しになると、わかってくれる人がいたのがうれしいのか、照れていた。
さあ、ここからは縦走路の尻尾ともいうべき石尾根の下り。途中、のんびりしながら七ツ石山を目指す。七ツ石の山頂には15時半に着いた。驚いたことに三角点の標石が抜かれていた。あんな重い物を誰が抜いたのだろう。しかも犯罪だ。そんなことを思いながら、七ツ石小屋に降りる。16時。歩き始めてから11時間が過ぎていた。疲れたが充実感をもてた1日だった。
 

平成30年度京都非公開文化財特別公開4月27日~5月6日^

 投稿者:福澤  投稿日:2018年 5月 6日(日)16時10分10秒
  恒例の催しに5月1日に行って来ました。今年は、戊辰戦争、明治維新150年にあたり、ゆかりの社寺や史跡が公開された(19ヵ所)、例によりうち6ヵ所を拝観した。
1、壬生寺
 (1)991年快賢僧都が仏師定朝に地蔵菩薩像を刻ませ本尊として創建
 (2)天明の大火、昭和37年の火災などで各像が失われたが、昭和45年、律宗、唐招提寺より延命地蔵菩薩立像<平安時代前期>が遷座、内陣両脇には、
   鑑真和上像と壬生狂言創始者である円覚上人像を祀っている。
  (3)境内の壬生塚には、近藤勇の胸像や隊士11名が葬られており隊士にまつわる逸話が数多く残っている。
 (4)代表的な寺宝ー長谷川等伯の<列仙図屏風>、伊藤若冲寄進の<僧>の仮面
 (5)壬生寺庭園~江戸時代の貴重な枯山水庭園
 (6)本堂内を取り囲む障壁画と襖絵、
2、大黒寺
 (1)1615年薩摩藩主、島津義弘が、この寺を薩摩藩の祈禱所として決めてもらい、その名も義弘守り本尊<出世大黒天>にちなみ、大黒寺とした。通称
   薩摩寺と呼ばれている。
 (2)1862年の寺田屋騒動で犠牲になった薩摩藩勤皇党9人の墓があるほかゆかりの書状が保管。西郷隆盛や大久保利通らが会談していた部屋も公開。
3、法傳寺(初公開)-行基により726年開基
 (1)木魚念仏最初の地、木魚による念仏の歴史は江戸中期の中興の祖、不退円設上人が最初。
 (2)鳥羽伏見の戦いは、1868年の1月3日に新政府軍<西軍>と旧幕府軍<東軍>が衝突して勃発し、東軍は多数の死傷者を出した。当寺境内も避難所
  として野戦病院のようであった。明治30年東軍慰霊祭が営まれ、その記念として山門北に戊辰東軍戦死之碑が建立された。
4、妙教寺(初公開)
 (1)淀殿が住んでいた淀古城の一角に建立された法華宗真門流の寺
 (2)水陸交通の要衝であり、さまざまの武将が入城した。現在の本堂は1840年に中興、第15世日冠上人が建立
 (3)鳥羽伏見の戦いでは周辺が戦場になり、1月4日本堂の壁と柱を砲弾が貫通した。この弾痕を保存、柱のできた穴に木片をはめこんである。東軍戦死者
   76名、
 (4)本尊は中央に題目の宝塔、左に釈迦如来、右に多宝如来で俗に三宝様という。その下に日蓮上人を中心に12体の像が安置、円陣にかかる欄間には4人
   の天女像が彫られている。
5、養源寺(相国寺山内)<初公開>
  室町幕府将軍足利義満が帰依した曇仲禅師を祀る、建物は1845年に現地に移転
 (1)秘仏毘沙門天立像が開帳<像高170㎝の彩色寄木造り、左手に通常の宝塔に代わって戟という武器を持っている。
 (2)本尊は薬師如来立像~戊辰戦争の際には薩摩藩士の傷病兵を看護する野戦病院として使用、イギリス人医師ウイリアム.ウイリスによってわが国初の
   西洋式外科手術が行われた。
6、櫻谷文庫(木島櫻谷旧邸)
 (1)この文庫は、日本画家木島櫻谷の居住していた和館、洋館、画室などからなり<いずれも大正2年築>、櫻谷の数千点の資料類を収蔵している。
  伊藤若冲の作品もあり。
 (2)和館は、四方が窓、かっては、北に北山、東には東山三十六峰などを見渡すことができた。
 

丹沢大山山行記

 投稿者:中村由博  投稿日:2018年 4月24日(火)06時55分31秒
  丹沢大山(1251m)
                         2018・4・21(土)
                           中村由博
 4月なのに夏の日差しを体いっぱいに浴びて丹沢大山へ町の山仲間24名と登ってきた。コースは
ヤビツ峠(標高761m)から入り大山山頂に向かうイタツミ尾根をとった。路線バスが通る県道70号は車同士がすれ違うのに難渋するほど狭かった。高度が上がれば車窓から眼下に広がる秦野の町と春霞がかかっている広大な太平洋が望まれて気持ちが安らいだ。我々が乗っているバスが他のバスと出会うことがないようにと願いながらヤビツ峠に到着した。ここから丹沢表尾根を縦走して塔ノ岳を目指す沢山の登山者が出発の準備をしていた。我々は彼らの脇を通って、予定より1時間も早く大山へ向かって出発した(8:30am)。
 強い陽光が新緑に照らされて眩しく、少し進めば汗がどっと噴き出て山を歩いている実感が湧き、登山シーズンを迎えた嬉しさが心をウキウキワクワクさせた。登山道の足下は赤土の関東ローム層、右側が植林された杉林、左側がブナなどの原生林が続き、道端にはスミレや可憐な花々と木々の間から色彩鮮やかなヤシオツツジの花が時たま目に入った。
 阿夫利神社下社からの合流地点のちょっと手前で雪を被った富士山が端正な姿を現した。遮るものが全くない空の下に悠然と構えている富士山を見て早速集合写真を撮った。全員が晴れ晴れとした最高の表情でポーズをとった。
 合流地点からは約15分で大山の頂に着いた。(10:50)江戸時代から大山詣では人気があったといい、また首都圏から近いので家族連れや若い人たちが足の踏み場のないくらいに沢山いた。登りの疲れを癒しながら昼食を摂っている人々の表情には満足感が漂っていた。我々一行は神社裏へ回って雄大な富士山を眺めながら昼食を摂った。秀麗、優美な富士山はすましているような表情で我々を歓迎していた。
つづら折りに続く丹沢山塊を前方、後方に白銀の南アルプスを従えている富士山はやはり日本一の風格を具えていた。
 下山は阿夫利神社下社へ向かうコースをとり、ケーブルカーと徒歩とにメンバーは分かれて、無事に
バスの待つ駐車場へ計画通りに着いた。(14:30)大山といえども結構手強かった!

 

生籐山山行記

 投稿者:中村由博  投稿日:2018年 4月15日(日)22時28分25秒
  生籐山(990m)ハイキング
                  2018・4・13(金)
                          中村由博
一点の濁りもなく爽やかに晴れた空の下、バスは終点の井戸に少々遅れて到着した。実はJR上野原駅でバスの発着所が駅の北口から南口へ変更していたのを知らなかったのでアクシデントが生じた。しかし、当初計画していたバスに我々のメンバー12名全員が乗ることができた。よって本当に安堵した。
バスを下車してから参加者の自己紹介後に出発した(9:20am)。春の陽光に身を任せながら進めば道路脇と民家の庭に鮮やかに咲いた花々が目に入る度に心が躍った。花々に詳しいSさんに花の名を教えてもらいながら歩いた。振り返れば雪を被った存在感のある富士山が望まれて、我々の背中から後押しをしているようだった。民家の横を抜けて軍刀利神社の鳥居をくぐると鬱蒼とした神社特有の杉林の中に舗装された参道が続き社務所があった。平日だったので参拝客は誰一人もなく、戸も締まりひっそりとしていた。さらに30分程進むと巨大な桂の木が軍刀利神社奥の院を隠すかのように悠然と立っていた。この大きな桂の横で早速記念写真を撮った。僕はこの巨木を見て驚いたと同時に強く畏敬の念を抱いた。
ここからは本格的な登山道が始まった。道は植林された杉林の間に緩やかな上りだったが、体は火照り汗がどっと出てきた。稜線に出て休憩したときには、木々の隙間から吹く涼風に体は癒されて爽快な気分となった。期待された山桜の花は既に散っており、気が抜けてしまったが、足元には可憐な花が所々に確認できた。整備された道は歩き易く三国山分岐を通り難なく生籐山頂直下に出た。急な岩場を注意深く登り詰めれば視界は開けてそこが生籐山の頂上だった。(12:00pm)ここで、待ち合わせ場所のJR高尾駅に間に合わなかったKさんと合流できた。彼は我々が下山する石楯尾神社登山口から登ってきたのだった。合流できて本当に良かった。
視界が開けている生籐山の頂に立てば、眩しい日差しが体いっぱいに強く降り注いできた。現在は春の真只中であるが、まるで夏に登頂したかのようだった。早速、温かいインスタントスープを作り昼食を摂った。何といっても山頂で食べる弁当は格別で全員が幸せに浸っているようだった。富士山の雄姿は春霞のために山頂からは少々はっきりしなかったが、新緑が生え始めた周囲の山々の稜線とどこまでも抜けるような青空とが鮮やかにマッチしていた。
記念撮影後はKさんを先頭に下山を開始した。(12:40pm)下山は高度を上げる苦しさがないので、全員の足取りは軽やかになってKさんの後に続いた。三国山付近の桜並木には枯れた花びらが色あせて無残な姿を見せていたのでため息が出てしまった。やはり花がないのは寂しいものだ。時折、Sさんの楽しい花講義を聞いて花の名前を覚えたつもりだったが、残念ながら僕はすぐに忘れてしまった。ミミガタケンナンソウ、マルバスミレ、ヤマブキ、スミレ、イカリソウ、ヤシオツツジ、このような花を教えてもらったのだが…? 足元の可憐な花々の名前がわかればもっともっとハイキングが楽しくなる違いない。今後は花に興味を持って山歩きをしたくなった。
 なだらかな下り坂を約1時間ゆっくりと歩めばしっかりとした舗装道路に出た。周囲の畑にはマネキンに服を着せた案山子にドッキリさせられたが、農家のアイデアに微笑んだ。春爛漫の中、長閑な風情に心が和み、都会では味わうことがないハイキングの楽しさを十二分に味わった。14:20に石楯尾神社バス停に13名全員が無事に到着し、乗車予定のバスに余裕をもって間に合った。
 春を思う存分に感じられる素晴らしいハイキングを計画されたFさんに感謝いたします。
次回の退職教ハイキングは1泊2日で高峰高原・湯の丸山を楽しみにしております。
 

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