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破風山松ケ谷コース

 投稿者:中村由博  投稿日:2019年 4月11日(木)18時43分32秒
   4月の会山行のお知らせ

先日お花見のときにご案内した破風山山行は松ケ谷コースにいたしました。

宜しくお願いいたします。

山名 :破風山(626・5m)
日にち: 2019年4月20日(土)
集合 : 6:00am JR東鷲宮駅改札口
交通 :(往路) 東鷲宮駅発6:15am  ⇒ 久喜駅着6:17 東武線発6:28 ⇒ 羽生駅着6:47
         羽生駅秩父線発7:06 ⇒ 皆野駅着8:38

コース:4/20 (土)
    皆野駅8:40…皆野橋…郷平橋…椋宮登山口9:30… 10:00? …
    …巻道分岐10:40 … 破風山11:10  下山12:00 …
    あずま屋…関東ふれあいの道猿岩12:20 … 風戸分岐12:45 … 風戸あずま屋 …
    風戸の鏡肌13:15 … 温泉スタンド…満願の湯13:30


交通 :(復路)満願の湯15:00 ⇒  皆野駅発15:44 ⇒ 羽生16:46 16:55 ⇒
        久喜着17:09 17:22 ⇒  東鷲宮駅着17:25

歩程 : 約3時間20分
持ち物: 着替え・行動食・昼食・温泉入浴用品タオル・雨具
参加費: 2500円
(秩父鉄道羽生駅~皆野駅フリー切符1440円 満願の湯900円 + α )


       ※ 参加を希望する方は早めに中村までご連絡ください。



 
 

三毳山のカタクリの花

 投稿者:コバヒロ  投稿日:2019年 3月23日(土)15時04分58秒
  佐野のカタクリの花は満開です。アズマイチゲも白い花を咲かせています。一輪草はちらほら。
花センターの温室でヒスイカズラも咲き始めました。
 

上州沼田の戸神山772m

 投稿者:イケシュウ  投稿日:2019年 3月12日(火)01時14分44秒
   先週の土曜日9日、春1番が吹いた暖かさに誘われて、沼田市の戸神山に車で出かけた。
 戸神山は、太平洋戦争前後まで鉱山があったことで知られており、今でもその石堀跡地
があり、興味のある石が採取できそうなことから行ってみたいと思っていた。

 登山口は南北2か所あり、まず北側の観音寺登山口に駐車して登山開始。前日の雪が
頂上に近づくに従いうっすらと残っていた。通常40分で登頂出来る所をのんびりと
寄り道しながら登ったので、お昼過ぎに着いた。頂上では、5組20人位が昼食中であった。

 食事をとり、写真を撮っていると、なんと野鳥のヤマガラが一人の地元の人の手の掌から
餌をついばんでいた。それを見て「毎日この山に登られてるんですか?」と声をかけ
話をした。その人は、彫刻家Yさんで、登山道に数十体の木彫りの動物を作った人だった。
 話の途中に、手を出してごらんと言いながら、私の手のひらに餌のくるみの実を細かく
したものをのせると、何とヤマガラが私の手にとまってついばんで飛び立った。
 Yさんから、手彫りの「戸神山」の木札を頂き別れた。

 頂上からは360度のパノラマが広がり、低い山にしては立派な方位盤がある理由も納得だった。
 特に雪を被った 武尊山や浅間山は見事だった。
 山の南側は雪もなく、もしかすると鉱山跡で石拾いができるかなと急ぎ降り、車を廻した。

 南側登山口は、清楽寺霊園に駐車させてもらって石拾いに。約30分ほど登って、鉱山跡地に
到着、早速石拾いをした。雪はなかったが、落ち葉が多く想像していた状況とはちょっと違っていた。
 それでも洞窟の中を登山用のヘッドランプで照らして石英片2~3個拾いリュックに入れて降りた。
 洞窟おじさんになった気分で楽しんだ。

 帰路、沼田市内の和菓子の老舗店に行き、銘菓「星花火」を購入。
 職場の女性陣にホワイトデーに渡すつもり(笑)
 因みにこのお菓子、形が戸神山の山容で、名前は、伝説の女優 夏目雅子(俳号 海童)が詠んだ
   「間断の 音なき空に 星花火」  が由来とか。

 帰路、関越から北関東道経由、東北道を通ったら、事故渋滞、館林から一般道で帰った。

  自宅9:00-11:00観音寺駐車場…12:30戸神山頂上13:30…14:00駐車場ー
  清楽寺霊園駐車場14:30…15:00鉱山跡…霊園駐車場15:40-お菓子司かねもと16:30
  沼田IC経由自宅19:00着
 

お花見のご案内

 投稿者:中村由博  投稿日:2019年 3月10日(日)22時31分35秒
   香日向山の会会員の皆様へ                  2019・3・10(日)
                                中村由博
                お花見のご案内
                                                       毎年恒例のお花見を下記の要領で実施いたします。
         ご多忙中のことと思いますが万障繰り合わせの上ご参加ください。
         大いに飲んで食べて山と人生を語り合いましょう。
         尚、参加は自由で、持ち込み大歓迎です。
         宜しくお願いいたします。

                   記
     日時 :  4月7日(日) 12:30pm ~ 15:00頃まで
     場所 :  西公園 桜の木の下
 

青春の源流

 投稿者:中村由博  投稿日:2019年 3月10日(日)12時05分35秒
   3年前のこの時季に旅したベトナムを思い出しながら、北アルプス最深部にある雲ノ平が描写されている『青洲の源流』を読み直しました。

森村誠一著  『 青春の源流 』
                           2019・3・10
中村由博
 作者の森村誠一さんの若い頃は山に惹かれて北アルプスをはじめいろいろな山へ登った岳人だった。その山で培われた素養を基にした作品を彼は多く書いた。その中に『青春の源流』がある。(1)源流編、(2)激流編、(3)本流編、(4)遡行編』文庫本4冊で完結する。この作品とは限らないが、森村さんの著作は緻密で奥行きが深く過去・現代そして未来の人間社会に対して鋭い示唆を多く含んでいる。作品中の主人公が醸し出す崇高な生き方は美しい旋律をもって読み手に迫ってくる。
 この物語は昭和18年に学徒動員(出陣)が決定している若い逢坂慎吉と楯岡正巳が最後の山行を共にした。コースは岐阜県側の双六谷を遡って、双六岳~三俣蓮華岳~黒部の源流~水晶岳~烏帽子岳へ縦走の計画であった。北アルプス最深の山行を終え下山後に立ち寄った山小屋日暮山荘の娘・美穂は「卑怯をしても帰ってきてほしい」と逢坂と楯岡に語った。その後逢坂は徴兵を逃れるため雲ノ平に隠れ敗戦を迎え、日暮山荘の娘・美穂と結婚し、北アルプスの秘境・雲ノ平開発に乗り出す。そしてネパールヒマラヤ行きを目指していく。一方、楯岡は出兵していたベトナムで敗戦を迎えベトミン軍(ベトナム独立同盟)に加わり、ベトナム独立のために日々戦闘に明け暮れた。ベトナム戦争時では南ベトナム民族解放戦線と共に米軍・南ベトナム政府軍と壮絶な戦闘を繰り返した。楯岡は1975年5月1日にベトナム全土を解放するまで闘い、30年ぶりに日本に帰ってきた。
 逢坂と楯岡の青春は夢と希望に満ち山を愛したが、戦争に翻弄された2つのスリリングな運命に僕は終始ハラハラドキドキしながら読んだ。
作者は青春とは何かを我々に問いかけていた。
 自分が歩いた道が作品中にリアルに美しく書かれているのを読む度に山の素晴らしさを再認識できた。特に限りなく美しい北アルプス雲ノ平とその周辺に広がる水晶岳~鷲羽岳~黒部五郎岳が僕の体全体に蘇ってきた。これは何よりも勝る山岳風景である。
この物語の冒頭は
『山は静寂そのものだった。山がその季節にもつ本来の静けさを通り越し、時代の影響を受けて
あるべき最小限の人気も失った。荒廃の底に澱むような静寂が屯している。
 ……
「戦争が山を殺してしまったんだ」
「この山々がまたよみがえる日がくるだろうか」
 …… 』
 そして終末では
『 かつて逢坂も楯岡も美穂自身も若さに輝いていた時期があった。暗い時代もその輝きを消せな
かった。
……
― とうとう私一人になってしまったわ ー   美穂はそっとつぶやいた。
青春の仲間が彼女を置き去りにしてみんな去ってしまった。
……
東京の空は今日も季節風が強かった。強風は空を凶器の肌のように磨き上げている。
遠い日の仲間たちの青春が最も輝いていた黒部の源流は今ごろ深い雪の下だろう。
もはやメッセージを発する相手もいなくなった美穂は、心にかすかな水脈を引いていた
自分の青春に完全に終止符を打たれたことを悟った』

最後に作者のあとがきには
 『 青春の可能性を運ぶ列車には未知がいっぱい詰まっている。
   ……
  青春に向ける郷愁は、あの途方もない道を懐しがっているかもしれない。
  しかし、人生のどこでどんな道と遭遇し、どんな出会いをするかわからない。
   ……
  その意味では我々は常に青春の中にいるともいえるが、未知の要素が大きいほど
青春に近いのではなかろうか。 』










 

筑波山薬王院コース

 投稿者:中村由博  投稿日:2019年 2月27日(水)18時34分3秒
  3月の会山行に予定されていた筑波山薬王院コースの実施日を3/23(土)から3/16(土)に変更しましたのでご了承ください。

    3月の日程
ミーテイング: 3月10日(日)19:30~ コミセン
 会山行    : 3月16日(土)筑波山薬王院コース 会山行ではこのコースは初めてです。
詳しくはミーテイングで説明いたします。

尚、毎年恒例の西公園で催されるお花見は4月7日(日)に実施いたします。









 

湯河原幕山

 投稿者:中村由博  投稿日:2019年 2月24日(日)08時15分19秒
    湯河原幕山ハイキング     2019・2・23(土)
                          中村由博
心配された雨が全く嘘だったかのような好天に恵まれて、香日向山の会の一行25名は観光客で賑う湯河原梅林『梅の宴』の舞台の脇を抜けて幕山頂上へ向かった。
幼児を連れた家族そして多くの老若男女が7~8分咲きの梅を愛でている中を我々の一団はしっかりとした足取りで進んだ。梅見をじっくりとしたいところだが、山頂そして南郷山を目指す我々にとっては歩きながら梅を堪能できる贅沢に酔いしれた。
梅林上部に出て振り返れば白梅・紅梅が見事な模様を描き、見上げた先には垂直に立っている岩壁にクライマーが張り付いていた。幕山は約15万年前に火山活動でできた
溶岩ドームであり箱根外輪山の裾野にあり、柱状節理の岩壁が歌舞伎舞台の幕の様なので幕山と言われている。岩壁を囲むかのような見事な梅林は山全体を彩っていた。
梅林を抜けると落葉した樹木が木肌を晒しその間からは目を遠くに向ければ霞ながらも太平洋が広がり真鶴半島が突き出ていた。
 日差しは優しかったが、上り一辺倒でジグザクの登山道を進めば汗がどっと噴き出た。
ちょっと疲れたところで山頂に着いた。そこでは冬枯れた草が広がり、大勢の登山者が思い思いに座って昼食をとり、足下には広大な太平洋が陽光を眩しく照り返していた。
 早速、記念撮影をして昼食を摂って、今度は南郷山へ向かった。途中、道を間違える失態をしたが、正確なナビをいつも持参しているNさんのお蔭で南郷山を登頂できた。
南郷山の頂上は狭く、ここにも登山者が沢山いた。春の訪れを満喫するために登ってくる人々の多さに驚いた。我々一行は海の見える山頂脇に移った。やはり海を眺めると
心が開放される。今後の夢や希望を抱かせてくれるようだ。昔から歴史に残る偉人たちは海を眺めながら自身の想いを固めたという。
 早速、下山を開始して幕山の裏をぐるっと巻いているような道を進み登山口の幕山梅林『梅の宴』舞台の前に帰着した。宴もたけなわで舞台の前では観客が大勢いた。
防寒着は全く不要となった春を梅の花がいっそう盛り上げてくれた。幕山梅林の花々に感謝しながら梅見ハイキングは終了した。
 コースタイム
幕山公園P9:35am 出発~ 幕山11:00  昼食 11:40 ~ 南郷山12:30
12:45~(大石ヶ原)~幕山公園P14:30

  
 

歴史に ”IF”はないけれど

 投稿者:埼玉の酔仙  投稿日:2018年12月26日(水)21時17分27秒
  幕末から明治への経緯を振り返るとき、薩長政権による”維新”史観を払拭して考えれば、日本の進むべき道は他にもあったように思われます。あの歴史の転換期に、あの「慶喜」が将軍となったことが、徳川幕藩体制を一気に崩壊させた一因かと。天狗党の乱で自分を頼りに決起した多数の家臣を見殺しにし、鳥羽伏見でも大将自ら戦線離脱し、江戸開城、戊辰戦役と、常に保身を第一に、“ならぬことを、なるように”してきたとしか思えないですね。それでも(それだから)公爵か。

薩長同盟が成立せず、公武合体、雄藩連合が成立していれば、UAE(アラブ首長国連邦)のような政体が成立していたかもしれないし、富国強兵と自滅への道をたどることもなかったかもしれない。

歴史に ”IF”はないけれど、薩長政権末裔の今のAB政権の体たらくを見ていると、そんなことを考えてしまう、今日この頃です。

http://saitama-no-suisen.cocolog-nifty.com/

 

前文の続き

 投稿者:福澤  投稿日:2018年11月20日(火)12時06分2秒
   先般、OB会のバスハイクで福井県敦賀市を訪れた。ここに武田耕雲斎の墓跡がある。水戸では尊王攘夷の徳川斉昭の死後、混乱を極め、藤田東湖の四男、小四郎が天狗党を率いて挙兵、小四郎の熱意にやむなく耕雲斎は首領となった。京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主にすえることを目的として、800名の将兵を率いて中仙道を進軍、福井の敦賀で幕府軍の追討を受け降伏した。当初は加賀藩の預かりで取扱いは丁重、幕府役人に引き渡されると鰊蔵に押し込められ劣悪な環境の中で病死者が続出した。処刑(首切り)の役目は、結局は桜田門外の変の因縁から彦根藩が引き受けた。耕雲斎は小四郎とともに斬首された。<353名>耕雲斎の水戸にいた妻、2人の子、3人の孫も斬首された。この件について西郷隆盛は、「降伏したものを罪人扱いして誅殺するとは尋常の振る舞いでなく、道理に合わない」とし、大久保利通は「是をもって幕府滅亡のしるし」と日記に記している。なお、耕雲斎の娘は、前述の紀尾井坂事件の島田一郎の妻となっている。

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西郷どんと金沢

 投稿者:福澤  投稿日:2018年11月19日(月)15時04分28秒
  1、「西郷の首」【伊東潤作」~昨年秋に角川書店から刊行
明治維新の西郷隆盛と大久保利通の友情と同様、金沢においても、明治維新前後を生き抜いた竹馬の友、千田登文と島田一郎の2人にスポットをあてた小説である。
2、明治維新前後、加賀藩は中立的立場だったため明治新政府において優遇されなかった。
(1)このような中で、竹馬の友であった千田登文と島田一郎は、それぞれの生き方を波乱万丈の人生を送っている。
(2)2人は、戊辰戦争では、新政府軍の一員として、北越戦争で越後を中心に戦ったが、その後、廃藩置県、版籍奉還等の中で、士族が没落。千田登文は軍人に、島田一郎は三光寺派という尊王攘夷の政治結社をつくり、千田登文は軍人として戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争を生き抜いた。西南戦争では城山の西郷隆盛の自刃後、行方不明となった西郷の首を発見し、金沢の当時の新聞等で話題となった。
(3)島田一郎は反政府運動に転じ、明治11年5月6人<1人は島根藩士>で紀尾井坂で大久保利通を暗殺した。その後、7月処刑されている。~維新とは、武士とはといったテーマに焦点をあてた傑作である。
(4)紀尾井坂事件の島田一郎らの墓は谷中霊園に葬られている。また、三光寺派の拠点の三光寺は寺町のいわゆる忍者寺の並びに現存している。金沢では50回忌に明治烈士として6人の墓碑が野田山墓地から山側環状を隔てた所に祀られている。
(5)千田登文は4男6女をもうけ、昭和4年に死去。墓は野田山の大乗寺境内に葬られている。また、千田家は観光名所の武家屋敷の一角に残されており、今も子孫が後を継ぎ、金沢の用水から引いた池泉回遊式の庭園が金沢指定文化財に指定されている。<参考>大野敏明:「西郷隆盛の首を発見した男」文春新書:

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